サブスクリプションの概念がここ最近広まってきていますが、定期的に商品を販売するモデルは実は古くからありました。 その一つである「富山の置き薬」について触れてみたいと思います。
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富山の置き薬を知っている方も多いと思います。
自宅に薬箱を置いておき年に1、2度、薬屋の担当者が家に来て使った薬の分だけお金を支払って、期限の過ぎそうな薬は新しいものに取り替えてもらうサービスです。
薬箱の設置そのものは無料、具合の悪くなったときに使った分だけ支払うのですから、日本古来からあるフリーミアムモデルと言ってもいいかもしれません。
富山の置き薬の歴史は1690年(元禄3年)にまでさかのぼります。
富山の藩主、前田正甫(まえだまさとし)は自ら薬の調合も行っており、「反魂丹」という薬を開発していたそうです。
江戸城に参勤した際、三春藩主の秋田輝季が腹痛で苦しんでいたところを正甫が反魂丹で治したことから、諸国の藩主が領内で反魂丹を売ってもらえないかと頼んだのが置き薬の発祥と言われています。
正甫は自身の藩の外で商売ができる「他領商売勝手」を発布して、全国で薬を販売することができるようになりました。
ここでポイントとなるのが、正甫の「用を先に利を後に」という先用後利の精神でした。
まず常備薬の入った薬箱を設置して、その後1年に1度か2度、薬箱を設置した家々をまわって使った分だけ費用を支払ってもらい、古くなった薬は新しいものに交換する。
当時は薬の店売りも少なかった時代で、庶民や幕府のニーズにマッチしたことで置き薬は拡大しました。
広く普及した置き薬ですが、薬売りたちは自分の顧客の情報を記した「懸場帳」を持っていました。
懸場帳には顧客の氏名、住所や家族構成といった基本情報だけでなく、配置している薬の情報や過去の使用料、いつ訪問したかといった履歴も詳しく書かれていました。
現在のデータベースです。
薬売りはこの懸場帳をもとに家庭をまわり、その都度、薬の販売の内容や家族構成の変化などを記していきました。
江戸時代では藩を超えてやってきた薬売りはよそ者でした。
しかし、一度薬箱を置いてしまえばその後は家族構成や過去のやり取りの記載された懸場帳をもとにコミュニケーションをはかることができます。
家族の構成は変わったか、家族の健康状態はどうか、これまでの履歴を見ながら会話できるのですから、信頼関係も深まります。